谷川岳から連なる上越国境の山々の外れに、巻機山という山がある。標高は2千メートルに満たないが、豪雪地帯のため遅くまで雪が残り、山頂付近はほとんど樹木がなく、池塘と呼ばれる小沼や高山植物の宝庫である。山頂に祭祀されている祭神は『木花咲耶姫』だ。その麓の集落に800年前からある伝説を紹介しよう 。
昔、薬草取りの若者がこの山頂に登ったとき、一人の美しい娘と出会った。登山の盛んな現代ならまだしも、面妖なことも有ると思うのだが、ともかく、この若者は一目でこの娘が気に入り嫁にしたいと思った。娘は背負って麓まで下ろしてくれることと、決して後ろを振り返らないことを条件に許諾した。それは屈強な若者にとって容易いことのように思えた。
しかし、麓の集落までは、高低差1500m以上あり、現在の登坂路と当時の登坂路がほぼ等しいとすれば、登坂で6時間、下山でも4時間はかかる。娘を背負って下りるには長い道のりである。若者の心にある疑念が生まれたとしても不思議ではない。若者は振り返ったのかも知れない。
その先の事は伝説では、目が潰れて盲目になってしまったとか、魔物に喰われたとか、諸説紛々だが、父が言うには現代でもその家は麓の集落にあり代々栄えたという。事の真偽はともかく、父の説を信じてみたい気がした。
恋に纏わる悲話は多い。例えば『娘道成寺』。恋に焦がれて蛇身となって恋人を焼き尽くす。『 八百屋お七』の、江戸市中を焼き尽くしてしまうまでの情炎に、畏れを抱くのはぼくだけだろうか。『牡丹灯籠』は怖かった。ラフカディオ・ハーンは、好いているなら、墓の中までついて行くのが男だろうと言ったらしいが、さすがに文化の相違に悩む。
家という封建制度に縛られた日本の男は恋愛に脆弱である。その点、雪深い農村地帯では古代の風習が残っていたのだろうか、この若者は強い。いくら一目惚れしたとはいえ、天女の化身とも狐狸妖怪のたぐいとも知れぬ、女を背負って一目散に山を駆け下った訳だから。
機織りの由来伝説という説がある。上布は台湾から南西諸島に伝わり、奄美、伊豆大島を経由して、ぼくのふる里を北限に伝わったと、沖縄の文献にある。巻機山の稜線を県境に向かって尾根を下ると清水峠に出るが、そこは上州から越後に抜ける街道の交通の難所でもある。遙かな昔、一人の機織女が道に迷ってうずくまって居たとしても不思議ではない。
2004.5.27
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