高校時代、肺活量や脈拍などを測定した際、スポーツ心臓と言われたことがある。運動音痴な僕は取り立ててスポーツをした経験がない。強いて言えば小学、中学とも通学距離が長か った上に朝寝坊の僕は毎朝ジョギングを余儀なくされたこと。
高校時代は山岳部に所属してい た。登山というのはとてつもなく不条理なスポーツである。重い荷を背負って1歩1歩ただひたら耐えるだけなのだ。ひたすら苦難の道を歩んで行くとやがて平坦な道に出会う。その景色の美しさは例えようもない。
オシリスの審判で心臓の重さを量る天秤には一方に分銅が載ってるものと勘違いしていた節がある。つまり、生前によく働いたものは当然、心臓が重い。それによって人間の価値が決められるのだと。
ところが、エジプト神話はそれほど甘くない。心臓は生前に犯した罪によって重くなるのだという。それはそうかも知れない。奴隷階級などは重労働で当然重くなるだろう。一方、上流階級は軽労働だから心臓も軽いだろう。ところが、余り強欲で貪ると動脈硬化で高血圧になり心臓が肥大化するかも知れない。
天秤の一方には分銅ではなく、マート神の真実の羽が乗るのだそうだ。そして、この羽より心臓が重ければ二度と復活出来ない。真実の羽について検索したがよく分からない。死後に裁きを受けると言う話は色々な宗教にある。これらは仏教用語でいう方便なのだろうが、案外この辺にルーツがあるのかも知れない。
時々、マート神の羽で計られる自分を思うことがある。僕の心臓(ハート)と真実の羽(生かされている意味)について思うのである。
2006.2.5日記より
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