愛染飯店

 むかし、愛染飯店という詩を作った気がする。果たして、愛染だったのか愛恋だったのか愛隣だったのか哀憐だったのかさえ忘れた。場末の飯屋の物語だったと思う。その詩を完成させたかどうかも定かではないが、棄ててしまったノートには確かに書いてあった気がする。


  調度、開発のアルバイトで、最後のレポートを書かねばならぬ、と思っていた頃だ。あのアルバ イトが成功していれば大学に戻った。留年したかも知れないが卒業して、何処かの工場で技術者として生きていたかも知れない。レポートの内容は設計図は書いたが、使用環境の問題と部品の損耗ですぐに精度が失われるだろうと言うものだった。


 その頃、ぼくは密かに内なる疾患に気づいていた。夢中になっていろいろ研究することや発想力では、たぶん、誰にでもひけは取らない。だが、夢中になりすぎて日常のリズムが狂ってくる。徹夜が出来ない。などの問題から技術者として生きることは難しい。どうしても諦めざるを得ない場面に遭遇して泣いた。


 その頃、母はぼくを郷里に戻すべく、公共事業で5000万円ほど金が入ると知らせてきた。それを元手にペンションを経営するのもいいかも知れないと、次の人生の設計図を描いた。絵に描いた餅ではあったが、母を怨むつもりはない。


 伴侶を得て、小さな山荘から夢の実現に努力した時代もあった。しかし、挫折した。考えてみれば挫折だらけの人生だった。だが、私は何処でも生き延びた。『背中の銀杏が泣いている』ほどのプライドではないが、心の奥に印された刺青を背負って生きてきた。


 時々、私が死んだ子の歳を数えるように、何か発明していると、家内はお手しゃぶりしている子供のようだと笑う。確かにそうだろうと思う。だがどうしても諦めきれないものがある。


 最近、研究を再開してみようかと思う。今なら、可能かも知れない。もうひとつ思う。あの飯屋は本当に実在してたのか。それはあの山荘だったのかも知れない。