程々な生活


 程々な生活は私の憲法のひとつだ。若い頃の放蕩な生活の反省から生まれた。昔、『商売をするなら貧乏人相手にしなさい』『貧乏人はお金を使うから貧乏人で、金持はお金を使わないから金持ちなのよ』と教えられた。なるほど、独身時代は結構稼いでいた。しかし、ほとんど酒代に消えた。この辺、啄木の生活史と類似点がある。違うのは結婚して財布を家内に取り上げられことだろう。


 我が家を見ると、長女家は割と高収入。リビングは整然としていて余計なものがない。双方のジジババが、競ってオモチャを買ってやるので、オモチャは多い。それらはオモチャ部屋にあり必要に応じてリビングで遊ぶシステムのようだ。クローゼットのある部屋で目立つのは旦那のスーツくらい。子供服はほとんど手作り。和室で川の字になって寝ている。


 我が家は中収入なのでそれに比べれば雑然としている。二人で飲みにも行くし、旅行にも行く。次女は独身で同居しているのだが部屋は凄い。これがそのまま貧富の序列になっているところが面白い。 


 若い頃は消費は美徳であると盛んにに言われた。まあ、確かにGDPは上がる。それが豊かさの指標と言われるとどうか。バブルがはじけて失われた20年と言うが、その時代を生きた者として思うのは、確かに子育て時代は貧しかった。


 子供が増えて消費は増すが、家内は働けず収入は減った。車検代が払えず。『6万円で車検の付いた車を探そうか』なんて時代が懐かしい。子供達に聞くと『全然貧しくなかった』と言う。生活のために喧嘩したことはない。希望ヶ丘というところに住んでいた。 


 実際に私達の世代が最も多くの預貯金を残した。程々の生活とは収入に見合った生活をすることで収支がバランスしていれば貧しくもない。


 逆に身の丈に合わぬ生活とは、収支に合わない生活をすることだろう。赤字になったり極端に黒字になっても良くない。身の丈に合った生活で、自然に貯まるのなら邪魔にもならないだろうが、無理に貯めれば幸せの時間を短くする。


      焚くほどは風がもて来る落ち葉かな 


  私の程々な生活のひとつの指標だ。家庭を持つには、年収何百万円以上必要とか聞くと、なぜか、山用品のチタン製のクッカーがいいか、アルミ製のクッカーがいいかと思う。我が家はチタン製のクッカーを使っているが、 チタンは高いがアルミは安い。重量差は少しあるが熱伝導率はアルミがいい。 山でご飯を炊くにはアルミがいいようだ。


 お金が有っても無くても、貧しい人は貧しいし、豊かな人は豊かだ。家庭内の事件はどちらが多いか本当は解らない。知足者常富(足るを知る者は常に富めり)。しかしまた、足らざるを知るは学の道でもある。


    はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る 


『啄木って働いたこと有るの?』と言う突っこみはともかく気持ちは解る。