尾瀬は何回も行っているのだが、初心者の次女を連れて行くのには丁度いい。山コーヒーはUCCのカップコーヒー。谷川岳の名水で入れるコーヒーはそれなりに美味しい。
水の他にビールをしこたま背負わされた。運転するので飲めない。家内は私のことをビール運搬人と言っている。もしかしたら30Lザックはその意味でもあったのか。家内は昔から油断がならない。それでも木陰での食事は楽しい。至福の時を過ごした。
勤めていたり、介護をしている時は、1日の仕事に追われて、とても明日のことを考える余裕はなかった。ある意味、幸せであったのかも知れない。
いろいろな介護の本を本屋で立ち読みして、あらましの知識は身につけた。父や母の残存能力の維持に注目した。父は家内に言わせれば『小便かぶり』である。しかし、目がほとんど見えず、的が絞れないのだ。それで便所の中がオシッコで汚れる。これは雑巾で拭けばいい。トイレ掃除もこまめに出来る。
服がビショビショになるのは、公衆便所で観察した。用が済まないうちにズボンに仕舞ってしまう。パンツの上からカメさんがちょこんと顔を出して噴水になる。今思い出しても笑う。
それは洋式便座に座って用を足せばある程度防げる。習慣づけるためにしつこく言ったこともある。回数は減ったが『小便かぶり』は収まらない。私もたまにズボンを濡らすことがある。 哀しいかなそう言う年にもなった。それで座って用を足すことにした。しかし長年の習慣は恐ろしものだ。
声掛けはすることにして、ぬらしたら着替えをいっぱい用意して黙って渡す。母も失禁があったから、まとめてそれだけで洗濯する。着替えさせてあげれば親孝行だろうか、それでは父と母の残存能力を奪ってしまう。自尊心はどうなる。
介護されるようになって、自尊心もなにもない、と思う方もおられるかも知れない。介護はされていても父は父、母は母である。自尊心は我々以上にある。彼らの自尊心を傷つける介護は、いかがなもか、と思う。
母は足腰の丈夫な認知症患者である。ある意味、最も難しい要介護者だ。しかし、母の残存能力を父と比べた時、母の残存能力のほうが高い。問題は徘徊で私の言うことを聞かない。いろいろ、母が話すことから想像するに、母にとって私まだは幼児なのだ。『散歩しているだけだ。子供が親に意見するなんて何事か』と言うことらしい。
勿論、強制的に連れ戻すことは出来る。しかし、屋外では。それを誰かに目撃される。ほとんどの方が、認知症の徘徊の介護なんてしたことがない。老人=弱者という公式からすれば、抵抗する母を無理矢理、車に押し込む姿は、まさに老人虐待そのものだろう。
それで付いて回って、きりのいいところで連れ帰るのだが、時には数時間に及んで疲れる。女を口説くよりおふくろを騙すほうが楽だが、それなりにエネルギーはいる。車で父を連れて、母を探しに行く事で解決した。父の言うことは聞くのだ。父が亡くなって、母が非常に不安定になった時は、どうしようかと思った。
初めて、家中に鍵を掛けることにした。認知症の老人を、鍵を掛けて閉じこめれば虐待だ。徘徊して事故を起こせば、保護責任者の責任だ。
『じゃあ、どうすればいいの』
ある時、決断した。虐待になっても家中に鍵を掛ける。母はリスパダールを少量盛ると大人しくなる。認知症への、抗精神病薬の長期服用の危険性も、指摘されている。ショートステイでの様子を聞くと、安定しているらしい。それならば最低用量を頓服として使うのなら、影響は少ないだろう。医師と相談した。
窓は3重ロックになる。玄関も3重ロックにしたが、すべて内鍵なのでいずれ破られる。最悪、大工さんに内側からキー付きの鍵を付けてもらう。市に再認定をお願いして、今までの経過を、すべて、包み隠さず話した。母はいったん徘徊モードに入ると、赤信号でも何でも突っ切る。
いま、母は施設でとても幸せなんだと、面会に行くたびに思う。施設の皆さんには感謝である。最近、私は母にとって、1才違いの妹のおっぱいを奪って飲む存在らしい。そう言えば母のおっぱいがやけに白かったと言う記憶がある。まさかね。父や叔父になることもある。
介護地獄なんて言葉もあるらしいが、 私の3年間はそれなりに面白かった。父は亡くなって、今や我が家の守り神様だ。母には平穏な余生を送って欲しい。そう願うばかりだ。介護をすることで、少しでも父と母を助けることが出来たのならば、育ててもらった恩のわずかでも返せたのだろうか。
今日の課題は、家内と次女の関係を良好にすることだ。それが尾瀬行きの目的でもある。もっとも、私との関係よりも良好なんです。尾瀬で始まった、『ゴミを持ち帰ろう』運動が、全国に広まったとも聞く。いろいろな意味で、私には尾瀬は聖地だ。
半世紀前の湿原は、今より豊かだった気がする。少し草原化が進んでいるのかな。長蔵小屋で見た、尾瀬沼の夕陽は綺麗だった。もう一度見たいと思うが、家内は山小屋に泊まるのは嫌だという。 記憶は記憶の中で美化されているし、 昔の恋人に会うというのも考え物だ。
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