わが家のお寺の本山である円覚寺の管長さんの法話を読んでいる。正直、内容が濃すぎて通読できない。かといってこれ以上やさしく書くことも出来ないだろう。
清少納言や樋口一葉は、文章が緻密と言うこともあるが、感性に圧倒されてしまう。紫式部も通読出来なかった。華麗で流麗な文章の中に書かれているものは、私の恋愛観と一致しない。小泉八雲は、『好いているなら墓の中までもついて行くのが男だろう』と言ったらしいがよく解らん。
うちのお寺のご老師様は短い付き合いながらも、いいろお教えを戴いた。
『仏壇なんて魂を抜けばただの箱』
『仏様に毎日おまんまあげる方がよい』
毎日おまんまに少し疑問を感じた。
朝、食欲がない。それでも朝4時に起きて、父や母のためにご飯を作ってくれる家内のためにも、食べないわけにはいかない。最悪、お茶で流し込んでいるような状態だ。『死んだ人』にお供えしたご飯なんてとても食べる気がしない。
それで、ご老師様に
『誰が食べるかが問題だ』と聞いてしまった。
ご老師様曰く
『げん。ほとけさまが食べるに決まっているねか』
でも私はちょっと思った。 仏壇に上げたご飯が無くなっていれば怪談だぞ。
『ほとけさまが食べるわけねえねか』
ご老師様の仰る通り、毎日仏壇に炊きたてのご飯を上げて、それを家内が食する事になった。家内の実家では普通の事だったらしい。
しばらくして考えた。仏壇に上げたまんまを私たちが食って生きて行く。
『げん。ほとけさまが食べるに決まっているねか』
もしかしたら、今生を生きる私たちこそ仏なのではないか。
『いろはにほへと』にはそう言うことが書かれている気がするのだ。
もっとも、私はご老師様より現住職が好きだ。どちらも哲理を学ばれたことに相違ない。現住職は現代っ子だ。
塩沢 龍澤寺
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